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    1 名前:諸君、ていうかお前ら!? φ ★:2012/01/28(土) 13:05:48.84 ID:???

    「来年は日中国交正常化40周年。国民感情の改善を図っていきたい」。昨年11月、中国を訪れた玄葉光一郎外相は
    温家宝首相らと会談し、友好関係をアピールした。しかし会談に合わせるかのように、中国艦艇6隻が沖縄沖の公海を航行。
    硬軟織り交ぜた外交戦略が垣間見えた。

     歴史の節目を迎えた両国関係は、はるか1800年前、日本が倭(わ)と呼ばれていた時代にまでさかのぼる。それは近年の
    発掘調査で明らかになってきた。

     女王・卑弥呼(ひみこ)が君臨した邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で1年前、
    卑弥呼の宮殿かと話題を集めた大型建物跡から約3千個の桃の種と、土から桃の花粉を検出。建物周辺に桃の木が植えられ、
    「桃源郷」をイメージした宮殿だったことが分かった。

     桃は古代、仙人の食べ物とされ、中国の宮殿には桃園があったという。纒向遺跡の大型建物跡も、中国の宮殿を模倣する
    ことで威厳を示そうとした可能性が浮上。そこには、卑弥呼のしたたかな国家戦略があったと見ることができる。

     卑弥呼が活躍した2~3世紀、倭は北部九州と畿内の2大勢力をはじめ、東海や出雲(島根)などが台頭した群雄割拠の
    時代で、邪馬台国もその一つ。魏志倭人伝では卑弥呼は諸勢力が「共立」した女王とされ、政権基盤は決して盤石ではなかった
    ようだ。

     そこで、卑弥呼が頼ろうとしたのが中国の威光だったと見るのは、近藤喬一・山口大名誉教授(72)=東アジア考古学=だ。
    当時は魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)がしのぎを削り、魏の曹操(そうそう)や蜀の劉備玄徳(りゅうびげんとく)ら英雄が覇を競った。
    中でも優位にあった魏を、卑弥呼が外交相手に選ぶことは十分あり得た。

     魏に朝貢した「景初3(239)年」は、卑弥呼が東アジア情勢を見極めていたことを示す重要なカギといえる。この前年、中国・
    遼東半島から朝鮮半島北部の豪族で、倭と中国の交渉窓口だった公孫氏(こうそんし)が魏に反旗を翻して滅ぼされた。

     「卑弥呼にとって公孫氏の滅亡は決して対岸の火事ではなかった。今度はいつ自分が攻められるか危機感をもったに違いない」
    と近藤氏。中国に恭順の意を示すため朝貢したのは、公孫氏滅亡の翌年だった。「外交はひとつ間違えば国の存亡にかかわる。
    卑弥呼はそれを知っていた」

          ■ ■ ■

     景初3年は、日本の古墳から出土する銅鏡「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」の銘文に刻まれるなど、邪馬台国
    ロマンのシンボルだ。魏志倭人伝は、魏が鏡などを下賜して「国中に示せ」としたと記す。政権に不安のあった卑弥呼は、中国皇帝
    の権威を帯びた鏡を配ることで、国内統治を図ろうとした。三角縁神獣鏡は瀬戸内や日本海側で多く出土しており、大陸への
    重要な海上ルートを確保した証しともいわれる。

     三角縁神獣鏡は中国で出土していないことから、魏の下賜品ではなく日本製との説もあり、考古学界最大の論争となっている。
    しかし近藤氏は「倭人伝に詳細に記された鏡が発掘で見つかっている。魏との関係は無視できない」とする。

     東アジア情勢を敏感に察知し、中国の権威を内政に利用した卑弥呼。現在の「弱腰外交」に通じるようにも見えるが、自らの
    国力と大陸の脅威を冷静に見据えた厳格な政治判断があった。近藤氏は言う。

     「なぜそんなことをしたのか。国を造らなければならなかったからだ」

         ◇

     尖閣問題など日本の外交力が問われるなか、連載最終章として外交史を踏まえた国のあり方を考える。

    ソース(MSN産経ニュース) http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120128/wlf12012808000002-n1.htm
    写真=3世紀の東アジアの勢力図
    http://sankei.jp.msn.com/images/news/120128/wlf12012808000002-p1.jpg

    写真=卑弥呼の鏡といわれる三角縁神獣鏡=奈良県天理市の黒塚古墳
    http://sankei.jp.msn.com/images/news/120128/wlf12012808000002-p2.jpg


    20 名前:諸君、ていうかお前ら!? φ ★:2012/01/28(土) 13:24:34.80 ID:???

    >>5
    公孫氏は呉と誼を通じて反乱を起こしていたからな。

    なので、実は呉も倭(日本)に出兵を企んでいたことはあったのだ。
    呉は人口が少ないから、それを補うために日本から奴隷狩りをしようとしていた。
    (で、まずその前哨として台湾にも出兵している)

    …と見ると、「呉に対抗するために魏と結んだ」という側面もあるかもしれない。なかなか面白い。

    >>13
    ちなみに、始皇帝に命じられて「蓬莱」を探しに出た徐福は、日本に到達したんじゃないかとか言われてるねw
    紀伊とかあの辺に「上陸伝説」がある。

    44 名前:諸君、ていうかお前ら!? φ ★:2012/01/28(土) 13:50:25.21 ID:???

    >>35
    卑弥呼は「皇族の祖先(天照大神)」説もあれば、「古代の女性天皇の誰か」説、あるいは「まったく別の一族」説もあって、
    邪馬台国=大和国、とまでは言い切れていないはず。

    卑弥呼が誰を指すのかもまだ全然わからない状態。ただ、近畿説が濃厚になりつつあって、そうするとおそらくは
    今の天皇家一族――つまり皇族――の誰かなのではないか、という気がする。

    66 名前:諸君、ていうかお前ら!? φ ★:2012/01/28(土) 14:14:50.32 ID:???

    >>54
    公孫サンとは別の一族。公孫度―公孫康・公孫恭―公孫淵の一族だな。

    76 名前:諸君、ていうかお前ら!? φ ★:2012/01/28(土) 14:30:05.79 ID:???

    >>73
    三国時代の最も大きな資源は「人口」ですよ。つまり、そういう意味では倭(日本)はいっぱい資源のある国だったのだ。

    戦乱でものすごく人口が急減していたし、だからこそ呉も蜀も戦争で生け捕った捕虜は貴重な戦力だった。

    78 名前:諸君、ていうかお前ら!? φ ★:2012/01/28(土) 14:33:36.61 ID:???

    >>76はwikiソースで申し訳ないんだが、

    後漢末の157年の人口が5648万人だったのに、三国時代ではわずか818万人まで減った。
    いきなり1/7まで減ったのだ。(とはいえ、これはもちろん戦乱で記録から漏れている大勢の流民もいたであろうことは推測できるが)

    さらに言うと、魏がほぼこの半分強を占めていて、呉や蜀はその残りを分け合っているような状態。
    呉にいたっては、支配している範囲は広いが、あまりに人口がスカスカすぎて、だからこそあちこちで山賊が反乱を起こしたほど。

    …という背景とかも理解すると面白いと思いマス。

    98 名前:諸君、ていうかお前ら!? φ ★:2012/01/28(土) 14:50:26.79 ID:???

    >>86
    魏は比較的人口には恵まれていたのでその通り。俺が人口目当てで日本に攻める計画をしていた―というのは「呉」の方。
    ちなみに、日本でも有名な陸ソンが「それはあまりにも費用対効果がバカバカしいのでは」と反対して、結局頓挫した。

    >>88
    んだねぇ。でも、蜀錦はこの頃に生まれたもので、そういう産業振興策なんかもあって人口流出を何とか食い止めようとしてた。

    >>92
    日本と違って土地に対する執着があまりないのでは。むしろ逃れて新天地を探した方が生き残れたというか。

    128 名前:諸君、ていうかお前ら!? φ ★:2012/01/28(土) 15:24:04.23 ID:???

    ちなみに、呉が海を渡って夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に兵を出したのが230年。
    で、夷州には辿り着いたが、亶州には辿り着けなかった。

    夷州は台湾を指し、亶州は沖縄とも日本とも言われている。

    >>1の公孫氏が滅ぼされたのが238年で、倭が魏に朝貢したのが239年。

    こうやって見ると、魏・呉・倭のそれぞれの出来事は、密接に関連性があるんではないかなと思ったりしてね。

    121 名前:諸君、ていうかお前ら!? φ ★:2012/01/28(土) 15:15:36.40 ID:???

    >>116
    そうだよ。だから陸ソンが反対して頓挫したと言ってるだろうw 
    もっと後の時代の遣唐使ですら、海を渡れなかった人はいっぱいいるわけで、実はかなりの難コースなのだ。

    逆に言えば、そんな荒唐無稽なことすら考えざるをえないほどに、呉の人口危機って大きかったのだよ。
    実際に台湾には出兵してるのだ。まぁ、それで全然費用対効果に見合わなかったのだけど。

    122 名前:諸君、ていうかお前ら!? φ ★:2012/01/28(土) 15:17:34.87 ID:???

    >>119
    いやそれは単に「敵の敵は味方」ってだけだと思うけどw

    まぁもっとも、公孫淵はその後呉の使者の首を切って魏に投降したりとかしてたから、いざ攻められた時には呉は全く助けなかったが。



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    1 名前:ニライカナイφ ★:2011/12/24(土) 13:15:14.31 ID:???

    ◆“慰安婦葛藤”の根源…“韓日併合条約の不法性”問題の解決急務

    [書評] 1910年の韓日併合条約の歴史的・国際法的再照明

    「韓国のお母さんは黒人奴隷のような仕事をして/どんな称賛も楽しみも受けたことがない/
    この地のお母さんはかわいそうなお母さん…// 5月のひすい色の空の下/今日私たちの
    花束を受け取られ/大地とともに長く生き/この江山で私たちが咲かせる花をみなさい。」

    ノ・チョンミョン詩人の『お母さんの日』という詩の一部だ。
    詩人が意味したオブジェクトは“お母さん”だったが、今日、詩を通じて
    韓国の慰安婦生存おばあさんを思い出される理由は何だろうか。

    慰安婦おばあさんの生存者の数はもう60人余りしかならない。
    これらは生きている間に“大地に咲く花”を見ることができるだろうか。

    人間の基本的な権利と自由が踏みにじられない新しい生命に生まれ変わるのは、
    すべての慰安婦出身の女性たちの恨(ハン)の込められた望みだ。
    やがて彼女らの恨は即ち私たちの恨になるかも知れない。

    最近、日本政府は慰安婦問題の解決を促すわが政府の要請に答える代わりに、
    韓国挺身隊問題対策協議会が市民の寄付で駐韓日本大使館の向い側に建てた
    平和費撤去を要求した。

    1965年の韓日基本協定ですべての請求権問題が最終的に解決されたという彼らの従来の立場を変える可能性もまた、大きくないとみられる。一体、どこから誤ったのだろうか?

    イ・チャンヒ教授(韓国外大法学専門大学院)が最近、韓日両国の国際法・歴史学者らと
    共に出した『1910年の韓日併合条約の歴史的・国際法的再照明』は、慰安婦問題を巡る
    韓日間の葛藤の根本的な原因が、1910年に結ばれた併合条約にあるという点を明確に
    明らかにする。

    さらに、併合条約の無効性・不法性は、1904年の韓日議定書と第1次韓日協約、
    1905年の乙巳保護条約(第2次韓日協約)、1907年の第3次韓日協約などが結ばれた時に
    強行された歴史的背景を土台にしたものであることを指摘する。

    本は韓日両国の学者が共同で執筆した。国際法学者と歴史学者たちの共同研究の
    産物という点で、通渉の時代の潮流にも符合する。
    何より国際法上の国の責任を規定したという点で所蔵する価値を持つ。

    日本政府は現在まで併合条約について“正当ではないけれど形式的適法性を持っている”と
    いう立場を堅持している。日本の朝鮮支配は“国際的に承認されたこと”という主張だ。

    共同著者として参加した伊藤成彦日本中央大名誉教授は、強者の“合意の表現”である
    国際法・国際慣習が19世紀末~20世紀初め、国際社会を支配していたという事実を認める。

    伊藤教授は「しかし当時“狼たちの国際法”に対して“羊たちの国際法”と呼ばれる弱者の
    法もまた、存在した」として「1889年第1回米国議会という公の場で“戦争の脅威または、
    兵力の顕在によって生じた結果はそれを無効にする趣旨の勧告”が行われた」と指摘する。

    今日、国家間のすべての条約の有効性の判断基準を定めている『条約法に関する
    ウィーン条約』も、この“羊たちの国際法”を土台にして作られた成文法だ。

    アジアトゥデイ(韓国語) 2011/12/21
    http://www.asiatoday.co.kr/news/view.asp?seq=573300

    >>2以降へ続きます。

    2 名前:ニライカナイφ ★:2011/12/24(土) 13:15:28.87 ID:???

    >>1の続きです。

    伊藤教授はこのような観点から「ウィーン条約は、日本政府が“時制法”理論によって
    持続的に堅持している“狼たちの国際法”に根源を持つのではなく、当時もそれを批判・
    否定した“羊たちの国際法”が普遍化したもの」としながら「日本政府は“韓国併合”が
    道徳的・法的・政治的に誤った行為したということを正式に認めて、まず謝罪すべき」と
    主張する。

    山本興正日本東京大教授は、韓日合邦の意味を歴史的な見解から提供する。
    「韓日合邦という言葉は、ある日突然登場した単語でなく、明治時代を経て
    ずっと受け継がれてきながら大きくなった日本の朝鮮蔑視政策の終着地」だったというのだ。

    彼は「雲揚号事件以後、日本は植民地支配体制に移行するため一連の事件を起こすが、
    すべての事件には暴力・戦争が不可避的に付いて回った」として「この点が重要なポイント」
    と指摘する。

    興味深いことは、山本教授が明らかにした当時の日本政府と民権論者の関係だ。
    「政府に批判的だと見なされた民権論者が、むしろ“朝鮮征伐”を肯定し、
    積極的に国権守護論に吸収されていった」として「日本にとって朝鮮は、
    日本国内の左派と右派を糾合させる存在であった」と分析する。

    イ・サンチャン,ソウル大教授は△日本側が一方的に併合条約を推進したという点
    △大韓帝国は外国との条約締結に制約が多かったという点
    △条約締結で純宗の皇帝権行使に問題が多かったという点を上げ、
    併合条約案に対する韓国皇帝の裁可の有無自体に疑問を投げかける。

    条約を無効にする瑕疵が存在しないとか、成立手続きを概ね経たと主張したがる研究者は、
    併合条約に対する韓国皇帝の裁可を事実として受け入れているが、実状はそうではない
    ということだ。

    イ教授は「大韓帝国が国内法で(条約)処理手続きを規定していたにもかかわらず、
    御前会議で“口頭”だけで処理した」として「韓国皇帝が併合条約案を裁可したと見るのは
    難しい」という結論を下す。

    本は冒頭に次のような質問を投げる。
    「韓日併合条約が無効なら、それが具体的に韓半島内でどんな意味を持つのか?」
    結論は明確だ。
    「35年間、韓国は日本の強圧的占領状態下にあり、国際法上の行為能力は
    制限されていたが、国家の同一性と継続性(権利能力)は持っていた。
    日本は強迫的に私たちの警察権を剥奪したが、私たちの主権は法的に剥奪できなかった。
    1965年の日韓基本条約第2条での旧条約の無効確認条約は、結局、
    当初より無効というのが妥当である。」
    日本はこれ以上時代の変化を無視してはいけない。

    ※以上です。



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    1 名前:もろこしφφ ★:2011/12/07(水) 07:45:40.60 ID:???

    日本を蔑視しながらも、その繁栄ぶりに驚いていた朝鮮通信使、朝鮮で貨幣流通が遅れた理由、そして韓国屈指の「郷土料理」
    キムチの謎……。ほとんど学ぶ機会のない、両国の意外な歴史を解き明かす、「そうだったのか! 正しい朝鮮史」。今こでは、
    18世紀につくられた「朝鮮通信使」につづられた日本人観を紹介しよう。

    * * *

     当時の朝鮮人、特に朱子学を信奉する朝鮮の文人から見れば、日本は中華文明の教化を十分に受けていない島狄(島に住む
    野蛮人)に過ぎないという意識が強かった。朝鮮通信使も日本の風俗を儒教の道理から外れた野蛮なものと見ており、さらに
    豊臣秀吉の侵攻(文禄・慶長の役)に対する怨念を抱いていた。朝鮮通信使が書き残した紀行文には日本の風俗を蔑視したり
    嘲笑する内容が随所に見られる。日朝友好の証としてよく引用される申維翰(1748年に来日)の紀行文『海游録』にも日本の
    風俗を指して「禽獣に等しい」と評した部分がある。

     ただし、朝鮮通信使も日本のことを貶してばかりいたわけではなく、都市の繁栄や女性の容姿、山河の美しさ、技術の巧みさなど
    については素直に賞賛している。1753年に朝鮮通信使の三房書記として来日した金仁謙も富士山を絶賛し、大坂の発展ぶりを
    「我が国の鍾路(ソウルの大路)の一万倍も栄えている」「一行中に北京に行った訳官(通訳)がいたが、その壮麗さもこれほどでは
    なかったという」などと手放しで絶賛。

     大坂の繁栄ぶりについては1711年に来日した任守幹も「家々の大きさと繁栄ぶりは中国の通都(大都市)も及ばぬほど」と
    評している。金仁謙は尾張名古屋で見た当地の女たちを楊貴妃、趙飛燕(前漢成帝の皇后)に例えて賞賛し、「美しさに恍惚と
    なる」とまで記している。

    ※週刊ポスト2011年12月16日号

    ソース(NEWSポストセブン) http://www.news-postseven.com/archives/20111207_74108.html



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    1 名前:ニライカナイφ ★:2011/11/21(月) 21:45:41.14 ID:???

    ◆日本が百済難民救出作戦の理由

    写真:明仁天皇.2010年に王宮(皇居)で取った写真
    http://ojsfile.ohmynews.com/STD_IMG_FILE/2011/1121/IE001372331_STD.jpg


    今から10年前の2001年12月18日. この日、第125代明仁天皇の発言が韓国・日本両国で
    大きい反響を呼び起こした。

    (第50代)桓武天皇の生母が百済武寧(ムリョン)王の子孫だと<中日本期>に
    記録されている。

    記者会見から出た、この発言は、日本王室と韓国の血縁的縁を天皇自ら公式に
    認めたことだったという点で重大な意義を持つ。
    事実、古代日本が韓国の影響を受けたとのことは天皇があえて強調しなくても
    極めて当然のことだ。
    ただ王室の血統だけでなく経済・政治・文化・社会各方面で韓国・日本間の
    相互作用があったであろうし、そのようなの中で百済の方の作用が相対的に
    はるかに優勢だった。
    この点は日本の著名な歴史学者によっても認められた。
    考古学者の江上波夫は古代日本の開始が韓民族の手でなされたという
    破格的な主張を出した。
    彼は著書の<騎馬民族国家>で、満州および韓半島の騎馬民族が韓半島南部を経由して
    日本列島を征服した事実が古代日本の墓資料らを通じて立証されたと明らかにした。

    ■日本という国号の祈願、韓国とどんな関係?
    古代日本が事実上韓国人らの'思い通り'経営されたことを立証する興味深い事実がまた、
    一つある。それは「日本」という国号の祈願だ。
    この国号の採択過程を観察すれば、古代日本の成立および発展過程で韓国人がどんな
    役割を遂行したのか理解することができる。

    日本の本来の国名は倭国だ。
    「倭国」が「日本」に変わった時点は興味深く百済滅亡直後であった。
    <三国史記> '新羅王の伝記'文武王方に国号変更の歴史的瞬間が記録されている。

    (文武王10年)12月、倭国が国号を日本に変えた。
    「日が昇る所に近いので、このように名前を付ける」で自分で言った。
    (倭国更号日本.自言、近日所出以為名)」。

    類似の説明が唐の歴史書物の<旧唐書> 「東夷列伝」日本編にも出てくる。

    「日本国というのは倭国の別種の一つで、国が太陽側にあるので日本と呼ぶことに
    なったのである(日本国者、倭国之別種也.以其国在日辺、故以日本為名)」。

    国号が変更された時点の文武王10年12月は陽暦では671年1月17日から2月14日の間だ。
    この措置が日本の律令に反映されたのは701年だ。
    律令に反映される前にも新しい国号がすでに広く使われたという点は、
    678年に中国西安で死亡した百済人イェ氏の墓誌銘に日本国号が登場するという事実でも
    確認される。
    この墓地は2010年に西安近郊で発見され、これについては去る10月23日付<朝日新聞>を
    通じて世に知らされた。

    写真:日本、滋賀県東尾優美市にある百済史寺。日本語ではヒャクシジラと呼ぶ。
    日本列島の中間ぐらいにある。天台宗系列の査察で、606年聖徳太子が建立した。
    百済の寺院を真似したとして百済寺と呼んだ。
    http://ojsfile.ohmynews.com/STD_IMG_FILE/2011/1121/IE001372332_STD.jpg


    オーマイニュース(韓国語) 2011年11月21日11:37
    http://www.ohmynews.com/NWS_Web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0001658791

    >>2以降へ続きます。

    2 名前:ニライカナイφ ★:2011/11/21(月) 21:46:09.56 ID:???

    >>1の続きです。

    ■倭国が671年に国号を変えた理由は?
    倭国が671年に国号を変えた理由は何だろうか?
    それが百済の滅亡と深い関連があるという点は、
    その直前まで倭国で行なわれたことを通じて把握することができる。
    明仁天皇も認めたように、倭国の王室は経済・政治・文化・社会的にだけでなく
    血統的にも百済と緊密な関連を持った。
    4世紀時の応神天皇と5世紀時の仁徳天皇が百済人の子孫という点は広く知られた話だ。

    また親百済派を打倒した政変の大化の改新により645~649年にチンシルラパが
    しばらく政権を取ったことはあるが、倭国は基本的に親百済の国であった。
    移動がある時は行かなければならないとして伽那とも親しかったが、
    伽那がなくなった後では百済と特に親しかったのだ。
    百済-倭国同盟は韓米同盟以上に強固な同盟だった。

    百済-倭国の強固な同盟は、660年に義慈王が白旗を揚げることによって
    百済が門を閉めた後にも冷めなかった。
    日本支配層内ではどうにか百済を生き返らせてみようとする雰囲気が熱く燃え上がった。
    いわゆる百済復興運動の熱気が火のように燃え上がったのだ。
    例えば、<日本書紀>27巻によれば、当時の倭国統治者の天智天皇は
    天智1年1月27日(662年2月20日)百済復興運動の主役の福神に軍需物資を支援し、
    天智2年8月27日(663年10月4日)には綿江で羅唐連合軍に対抗して闘争した。

    倭国人の同盟精神は百済の流民たちの温かく熱烈な歓迎でもって表出された。
    彼らは百済の王族たちを優遇しただけでなく一般百済人たちを日本列島に呼び入れた。
    <日本書紀>クォン27巻によれば、白村江の戦いで敗北すると、すぐに倭国指導層は
    「百済という名前は今日で切れた。(先祖の)墓がある所にどのようにして帰る方法が
    あるだろうか!」と嘆きながら百済内の親戚を救出するための方法を軍当局と緊急に
    協議した。
    その結果、天智2年9月24日(663年10月30日)には日本水軍が百済難民救出作戦のために
    全羅道(チョルラド)海岸に上陸した。

    ■日本、百済難民に多くのことを認めた
    百済の難民を受け入れる過程で倭国の人々は多くのことを譲歩した。
    彼らは文句なしにそのようにした。
    彼らは新しい家族たちが暮らす根拠地を用意してくれた。
    例えば、天智4年2月(665年2月20日~3月21日)には百済難民4百人余りに
    定着地を提供しており、天智5年10月(666年11月2日~12月1日)には難民2千人余りに
    家の跡地を支援した。
    これだけではなかった。倭国人は官職も与えてくれた。
    一例として、国号改正直後の天智10年1月(671年2月15日~3月15日)には
    約70人の百済人らに官職を与えている。
    軍事学に造詣が深い百済人らを最も優待しており、医学・儒教・陰陽学に専門性のある
    百済人たちをその次に優遇した。
    このような百済人受け入れ作業は非常に体系的な準備作業の結果として行なわれた。
    その緊迫した渦中にも倭国政府は流民受け入れのための制度的・政治的な準備を
    同時に進行したのである。

    例えば、天智3年2月(664年3月3日~4月1日)には従来の16官等制を26官等制に
    拡大改編した。百済人たちに官職を渡すために、そのようにしたのだ。
    この措置は支配層および一般民と関連した制度改革と共に行なわれた。
    上記の天智10年1月のような人事措置はこういう制度の改変をもとに出てきたのだ。

    この他にも、倭国では様々な形態の国家的改造作業が展開された。
    例えば、天智9年1月14日(670年2月9日)には調整内での礼法を整備すると同時に、
    貴族と賎民の間の礼法、高齢者と若者の間の礼法を整備した。
    社会全体的に新しい機運が火のように起きたのだ。

    >>3以降へ続きます。

    3 名前:ニライカナイφ ★:2011/11/21(月) 21:46:18.96 ID:???

    >>2の続きです。

    上記のように百済が滅亡して日本の国号が採択された時期に倭国の中では国家的に
    重大な変化が相次いで発生した。
    新しい家族を受け入れて新しい制度を採択するなどの変化が連続して現れた。
    国家全体が新しく生まれ変わる時期だったのだ。

    写真:MBCドラマ「ギエベク」
    http://ojsfile.ohmynews.com/STD_IMG_FILE/2011/1121/IE001372333_STD.jpg


    ■倭国という国号、だいぶやぼったくて...
    このような変化像を観察しますと、私たちは671年に日本国号が誕生した脈絡を
    簡単に理解することができる。
    先進文明を持った百済難民が倭国に大挙流入して彼らが国政に参加することにより
    従来の国号は百済人と倭国人を一つに統合できないようにしたのだ。
    換言すれば、百済難民の大挙流入が倭国の社会体制を圧迫する要因として作用し、
    その結果として新しい国号が誕生したと見ることができる。
    先住民と渡来人が参加して新国家を建設する過程で日本という国号が創案されたものと
    判断することができる。

    実際には、倭国という国号は漢字文化圏の中ではだいぶやぼったい方だ。
    <旧唐書>「'東夷列伝」日本編では、国号改正当時、日本列島の中でも既存の国号を
    嫌悪する動きがあったと紹介した。
    これは倭国という国号をやぼったく思う外部勢力が日本列島に大挙流入し
    彼らの発言権が国家経営に大きい影響を与えたことを傍証するものである。

    日本という国号は百済人と倭国人の共同作品だが、それを採用する過程で
    百済人の立場がより強く反映されただろうと推論する根拠がある。
    上で紹介したように、<三国史記>では「日が昇る所と近いので」日本という国号を採択した
    とし、<旧唐書>では「太陽側にあるといって」日本という国号を採用したとしている。
    倭国人の目には自分の国が「日が昇る所」だと感知することはできない。
    倭国を「日が昇る所」と話すことができる人々は倭国の西側に暮らした人々でなければ
    ならない。
    したがって日本という国号の中には倭国に対する百済流民たちの観点と哲学が溶けている
    と見ることができる。
    これは国号を変更する過程で百済人たちの影響がはるかに強かったことを示す。
    また、これは新国家の建設過程で百済人たちの影響力が非常に強大だったことを
    意味するものである。

    日本国号の誕生過程でも知ることが出来るように、百済流民たちは彼らの観点と
    哲学に立って日本列島を新しく切り開いていった。
    彼らの祖国の百済はたとえ滅亡したとしても、非常に滅亡したのではなかったのだ。

    「街道とても枝はアンノラシドンそのような約束があったところでしょう」(原文翻訳のまま)
    (キム・ソウォルの犬早瀬)という詩句のように、日本列島で「百済2」を切り開いた流民たちの
    努力のおかげで、百済という国は「街道とても行きはしなかった国」になった。

    私たちはよく「高句麗が滅びて渤海が誕生した」と話す。
    もう私たちはこのように話せる。
    「高句麗が滅びて渤海が誕生し、百済が滅びて日本が誕生した」と。
    黄山ヶ原の戦いは百済の敗北で確定する直前。
    百済が白旗を揚げて降参を宣言する直前。
    ギェベク将軍の目に写った、また、義慈王の目に映った百済の山川は
    決して百済の最期の姿ではなかった。
    なぜなら、「また他の百済」の山川が彼らの死後に新天地日本列島でパッと開かれるものだからだ。

    ※以上です。



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